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「あなたがた自身を変えて頂きなさい」パウロ的な十全的養成について

 十全的な養成によって私たちは自らの考え方の変えることができ、また私たちが使命を果たすべき今日の世界との実り豊かな対話を可能とします。このアプローチに照らしながら、そしてそれらが互いに補完し合うことを念頭に置きながら、強調・注意されている4つの本質的な側面に立ち返り、そして深めることにいたしましょう。


養成の十全性

 創立者と教会教導職の教えを思い起こしつつ、特にパウロ的生活の典型的な特徴である十全性について言及する時、文書に書かれてある養成の主題ははっきりしており、また正確です。特にそれが特定の分野に適用されるとき、それは非常に妥当するものとなります:「パウロ的養成は一元的です。すなわち『いのちの統合』に向かう傾きがあり、その人全体を修道会を通して神へと引き渡すわけですから、人間全体をすっかり巻き込むべく十全的でなければなりません」(RF、46)。しかし、この理想を実行するとき、諸々の困難が明らかになるのです。

 初期養成の段階において、毎日、毎週、毎年の活動を適切に割り当てていくことは、十全的な養成に非常に有益です。継続養成に焦点を合わせると、事情はより難しくなっていきます。一般に、自分自身を「ベテラン」と見なす会員は、日々の生活を相対化してしまい、パウロ的「車輪」の一部を選り好んで、別のまたは他のすべての車輪を蔑ろにしてしまう傾向にあります。「すべての町や村を歩き、会堂で教え、神の国を宣べ伝え、すべての病気や弱さを癒した」(マタ9:35)にもかかわらず、しばしば「人里離れた場所で祈るために退かれた」(ルカ5:36)イエスを見つめる必要がおそらくあるでしょう。彼はまた、憩いの時間を確保しながら、弟子たちの共同体と自分の人生を共有する術を知っていました。彼は弟子たちに、「人里離れた場所に行って、しばらく休みなさい」とも仰せになりました(マルコ6.31)。同様に、別の場面、例えばナザレ(ルカ4:16-30参照)やカファルナウム(ルカ4:31-39参照)では、神の言葉を学び、そして祈るために会堂に赴きました。彼は友人を訪ねました。そして、楽しい時間も痛みを伴う時間も彼らと共有されました(ルカ10:38-42;ヨハネ11:1ff;12:1ffを参照)。


使命を考慮して

 この点でも、創立者の教えと修道会の規範は非常に明確です。さらに、私たちがすでにアルベリオーネ神父と使徒パウロから学んだように、それはパウロ的カリスマの際立った教訓でもあります。宣教の熱意とキリストの福音をすべての人々、可能な限り多くの人々にもたらすという憧れは、私たちのパウロ的生活のすべての側面に活力を与え、推進力を与える動機となります(1コリ9:15-27参照)。ここにおいて、アルベリオーネ神父は次のように諭します。「養成全体は、パウロ家族それぞれの使徒職を反映するような勉学に向けて、特別な方法で調整および計画を組む必要があります。例え修学院においても、またはカウンセリング、瞑想、説教する際においても、この目標は、入会当初から念頭に置いておく必要があります」(UPSII、193)。

 無論、使徒職に向けられた私たちの養成の基本的な方向性は、使徒職を独占的に優先することを意味するものではなく、私たちパウロ会員が学術的な資格や専門性を獲得する可能性を損なうことでもありません。むしろ、教育は、使徒職の実践に向けて具体的かつ現実的に役立つという見通しを確かなものにするものでなければなりません。残念ながら、往々にして私たちは極端に奔(はし)る傾向があります:若いパウロ会員の適切な養成を促すにあたってある種の恐れまたは不信を抱いてしまったり、または養成と専門的な学究の機会を与えたものの、単なる学位を持った歩く百科事典を作り出すだけで、現実の使徒職活動に何ら役立つことなく終始してしまう事もあります。私たちの修道会では、養成とは常に使徒的養成でなければなりません。「私たちは学究の『実り』とは、使徒となることであり、ここに到達しなければなりません」(Alberione,Vademecum,286)。使命に伴う困難に対して適切に対応するために、全生涯を通じて自分自身を養成し続けていかなければなりません。


精神の変容

 次の総会への準備、式典、そして実施のプロセスの中心に、私たちは、神の恵みによって自分自身を変えさせるための使徒パウロの差し迫った勧告を見いだします。第4の課題において、養成のテーマに関するこの勧告は、多くの関連する重要な理由に基づいています。というのも「思考が人を作る」からです。師であるキリストとの一致を可能にしようとする際に新しい精神を生み出すべく、養成は信念と価値観を、個人のうちに統合しようとします。この新しい精神こそ、パウロ的精神なのです。「精神とは吸収する力です。精神とは管理する力です。精神とは、与えられた能力です。精神には衛生観念が必要です。建設的な秩序が必要です。社会の進歩は精神の進歩に依存します。人格の発達は精神に依存します」。

 キリスト者とパウロ会士の精神を形作ることは、私たちの意志と自発的な献身を含みながらも、基本的に私たちの内における神ご自身の行動の結実です。この点で、パウロが私たちにこの世に影響を受けないよう勧めた後(ローマ12:2)、「自分自身を変容させて頂きなさい」と翻訳できる受動態命令を使用することは重要です。つまり、この場合は神ご自身が行動の代理人になることを意味します。私たちがしなければならないのは、回心を通して、私たちの中で変容を実現する神の働きを、自らも行う事です。この変容と回心の目的は、神の意志、すなわち何が善で、喜ばしく、完璧であるかを見分けることを可能にすることです。このパウロの教えは、聖化の唯一の道として常に神の意志を行うというアルベリオ​​ーネ神父の意固地なまでの探求によく反映されています。この意味で、養成は最終的にキリストへ向かう聖性とその態度と結びつきます(RF39を参照)。「イエス・キリストは人間を敬愛し、自然的・超自然的能力を成長させ、人間を高めさせ、人間と神の時間、永遠を分かち合うのです」。


世界との対話

 修道会での私たちの養成は、すべての能力と次元にわたり、私たちの使命へこれまで以上の大きな献身に向けられ、そして照らされながら、神の恵みの業への自らを開いてくプロセスから始まり、この神の業によって、私たちは精神と自身の在り方をキリストに向けて新たにし、変容させることができます。そうすることによって、パウロ会士は、富める者や貧しい者、喜ぶ者と悲しむ者、成功者と失敗者、すなわち今日の世界との対話に挑むことが可能となります。私たちの修道会は、神からアルベリオーネ神父を通して賜りました。その使命はコミュニケーション文化を通じた宣教奉仕活動であり、したがって、私たちのカリスマに由来する宣教奉仕の存在意義を成り立たせている人々、つまり私たちの対話者たちが直面する複雑な現実に、私たちは無関心ではいられません。

 ローマ12:2は、私たちがこの世界に従ってはならないこと、つまり、この世界の様式や模範に従って生きてはならないことを警告することから始まります。しかし、これはこの世界との対話の必要性と矛盾しません。なぜなら、それは複雑な対話であり、しばしば骨の折れるものですが、私たちが奉仕しなければならないのはまさにこの世界に対してであり、別の世界に対してではないからです。養成においては、この宣教奉仕に対して常に注意を払う必要があります。なぜなら、心の中で新しい基準や価値観を築きあげるのを手助けするのではなく、外部との保護壁を作ることに満足しているからです。この観点からも、バランスを欠くというリスクに陥る可能性があります。無闇やたらと開放的であれば、たちまち塩が無味になりますし(マタ5:13を参照)、あるいは逆に私たちはこの世に「自分自身を結びつける」ことを恐れるならば、閉じこもり孤立してしまいます。いずれの場合も、この世界に奉仕するというパウロ的奉献生活の本質を失してしまいます。「私たちは、ラジオもテレビも映画も他の手段もなかった2世紀前の魂ではなく、今日の魂を救わなければなりません。[...]私たちは危険な状況にある今日の人々の霊魂を、同じく危険な状況において救わなければなりません」。


  • ダニロ・メディナ神父(聖パウロ修道会)による第11回修道会総会に向けての思い。

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