それぞれの働きという種 受難の主日(枝の主日)(マルコ11・1~10)

 典礼は、「受難の主日(枝の主日)」となり、いよいよイエス様の【受難と復活】に向けてのクライマックスに入ります。私たちが黙想してきた【四旬節】を振り返って、復活への善い準備ができたらいいですね。

 きょうは、2つの福音書のうち、エルサレム入城を見ていきたいと思います。イエス様は、ご自分がもっとも辛い【受難と復活】に向かうということを心と身体で準備されます。まずイエス様は、2人の弟子たちに「向こうに見える村に行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことことのない子ろばがつながれているのを見つけるだろう。……」と言われます。彼らは、イエス様の言葉をどのように思ったでしょうか。たぶん彼らは、「そんなの無理です。イエス様あなたは、私たちに何をさせようとしているのですか。口では、そう言われるけれどそんなにうまくいくのでしょうか」と思ったかもしれません。それでも彼らは、イエス様が言われたように出かけていきます。

 出かけて行った彼らは、かつてイエス様から2人ずつ組んで福音宣教に派遣された(マルコ6・7)ことを思い出したのではないでしょうか。2人は、「あの時は、汚れた霊に対する権能を与えられ、杖1本で、パンも持たされず、履き物は履いてよかったけれど、下着は2枚着ないようにと言われましたね」というような会話をしていたのかもしれません。それでも彼らは、イエス様から言われたことに従って子ろばを見つけに行きます。この彼らへの派遣は、私たちにも言われているのかもしれません。私たちは、日常の生活の中で度々「そんな難しいこと言われても私にはできません」と言うような場面があるのではないでしょうか。私がある蕎麦屋に行った時、そこで働いている人に、「今までは旅行会社のカウンターにいたのですが、辞令が出て『このお店のフロアー係をしなさいと』となったのです。このような仕事は、大学時代のアルバイト以来です。」と伺ったとことがあります。このように、私たちの生活の中では、自分の意に反すること、自分の能力よりも高いこと、生理的に苦手なことをしなければならない時があります。そのような時大切なことは、どのような気持ちでそれを行うかと言うことではないでしょうか。

 弟子たちは、イエス様の言葉を信じて出かけていき、外の通りにつながれている子ろばを見つけます。彼らは、不安の中で出かけて行ったかもしれませんが、イエス様が言われたように【子ろば】を見つけた時には、「あっ、本当に子ろばがいた」と思って喜んだことでしょう。それでも、「うまくこの子ろばを連れて行くことができるだろうか」と新たな不安が襲ってきたかもしれません。彼らが子ろばを解こうとすると、そこに立っていた人たちの何人かが「その子ろばを解いてどうするのか」と声をかけられます。弟子たちがイエス様から言われたように答えると、人々は、彼らがするままにさせます。

 みことばは、「2人はイエスの仰せになったように答えると、人々は2人のするままにさせた」とあります。ここで大切なことは、彼らがイエス様から言われたとおり答えたと言うことではないでしょうか。もし、彼らが別の言い訳をしたならうまくいかなかったかもしれません。私たちは、ついつい自分のエゴが出て見栄を張ったり、別の言い訳をして逆に逃げたりするような傾きがあるのではないでしょうか。しかし、弟子たちは、信頼してイエス様から言われたとおりに伝えたことでうまくできたのです。

 弟子たちは、無事にろばをイエス様の所に引いていき、自分たちのマントをかけます。イエス様は、そのろばに乗られます。聖書の中で誰も使ったことがない動物は、聖なるものに使われているようです。ですからこの「誰も乗ったことがない子ろば」というのは、イエス様の【受難と復活】のために使われるという役目を果たすことになったのです。ろばは、イエス様を乗せて光栄に思ったことでしょう。自分が進む道には、人々が大勢集まり、マントや枝が敷かれ「ホサンナ」と言う人々の声が響いてくるのです。また、ろばは「謙遜と平和」という意味もあったようですし、ゼカリア書には「娘エルサレム、歓呼せよ。見よ、お前の王がお前の所に来られる。その方は正しく、救いをもたらし、柔和で、ろばに乗って来られる。雌ろばの子、子ろばに乗って。」(ゼカリア9・9)とありますように、この子ろばは、「王であるイエス様」をエルサレムに入城という役目を果たすことができたのでした。

 イエス様は、エルサレムの境内に入られ、あたりの様子をつぶさにご覧になられます。マラキ書に「お前たちの求めている主は、突然、その神殿に来られる。」(マラキ3・1)とありますように、イエス様は、これからご自分が向かう【受難と復活】を思いながら神殿をご覧になったのではないでしょうか。そこには、もう群衆の「ホサンナ」という歓呼の叫び声も聞こえません。みことばには、「夕暮れになっていたので」とありますので、境内は、人気も少なくしずまっていたことでしょう。イエス様の思いを味わうことで私たちもイエス様と共に【受難と復活】に心と身体を向けることができたらいいですね。

聖パウロ修道会サンパウロ

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